『時代祭 / Jidai-Matsuri』 (京都の休日758)“
生きた時代絵巻”、京都
「時代祭」 本日10月22日(土曜日)開催
■「時代風俗行列」を見るため多くの人出で賑わう京都3大祭りの1つ、「時代祭」が、10月22日(土曜日)
京都市内で3年振りに開催されます。
京都御所建礼門前から烏丸御池、河原町三条、平安神宮まで、
山国隊の奏する笛、太鼓の音色を先頭に、約2,000名が約2キロにわたり練り歩く
「時代風俗行列」を見るため、沿道は国内はもとより
海外からの参観者もふくめ多くの人出で賑わいます。
■明治維新から延暦時代まで、8つの時代の行列が行進「時代祭」は、平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として
明治28年に始まった平安神宮の大祭で、壮大な「時代風俗行列」は神幸列にお供する祭列。
明治維新(維新勤王隊列、幕末志士列)から、江戸時代(徳川城使上洛列、江戸時代婦人列)
安土桃山時代(豊公参朝列、織田公上洛列)、室町時代(室町幕府執政列、室町洛中風俗列)
吉野時代(楠公上洛列、中世婦人列)、鎌倉時代(城南やぶさめ列)
藤原時代(藤原公卿参朝列、平安時代婦人列)、延暦時代(延暦武官行進列、延暦文官参朝列)の
8つの時代の行列に分けて行進。
最後に神幸列(神饌講社列、前列、御鳳輦の神幸列、白川女献花列、弓箭組列)の順で
20列で編成されています。
1万2000点にもおよぶ調度、衣裳、祭具は綿密な時代考証が重ねられ
京都が1000年の間、都として培って来た
伝統工芸技術の粋を集めて復元された本物で
まさに“
生きた時代絵巻”が繰り広げられます。
時代祭 / Jidai-Matsuriこの
『時代祭』って、実は日本よりも海外のお客様がヒートアップする行事なんだよねぇ~・・・・・
だからこの
『時代祭』の時期って世界中の有名人・セレブたちがお忍びでやって来る。
だからビックリするような人に巡り会ったりするんだよ♪
興味のある方は、下記の「続きを読む」をクリック!いつもご訪問ありがとうございます。
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「時代祭」っていうのは比較的新しいお祭りで、
明治時代1895年(明治28年)に平安遷都1100年を記念して「平安神宮」が創建され、
その記念事業として「時代祭」が始まったんだよね。
ワタシ、実は若いころ
「平安神宮」にも寝泊りした経験があるので、
奥の奥まで見せてもらった経験があるんだよね。
当時は色々有名な神社に寝泊りして色々と見聞きして来たので、
「ここは一切、誰も入れない所です。」・・・なんて言われても、
本音は、その意味や ありがた味など無かったんだけれども、
今から考えれば、いずれも大変貴重な経験でした。
今更ながら情けない話です。
基本、京都の大きな祭りは雨天中止で「順延も無し」っていうのは
京都人からすれば、なぜ当り前なんですね。
京都人はジンクスとして、大きな祭り・・・「京都三大祭り」の日程を変えると
「天変地異」などが起こるからですね。縁起が悪くなるからです。
調べてみれば分かると思いますよ。
実際に「天変地異」などが多く起こっていますから・・・・・
だから「送り梅雨(おくりづゆ)」7月17日の
「祇園祭」の山鉾順行が雨でも開催されるのは、その為ですね。
しかも「山鉾順行」のスタート・・・お稚児さん(神の使い)が注連縄を切って(結界を切って)
「山鉾順行」のスタートするのですから尚更、途中で止めたり順延するなど考えられないのです。
『貞観(じょうがん)の大地震』(陽暦869年7月9日) (ココをクリック)はご存知の方も多いでしょう。
2011年3月11日の東日本大震災と同じ震源域で起きた、ほぼ同じ規模の大地震です。
だから「東京電力」の「想定外」とか「予測不能」というのは嘘ッパチなんですよ。
平安中期に起きた「貞観(じょうがん)の大地震」の震災被害ののち、
疫病の被害も相次ぎました。それで京の都で大規模な
「御霊会(御霊会)」 (ココをクリック)を行ったんですね。
だから
「祇園祭」は、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」 (ココをクリック)と呼ばれたのです。
要は
「祇園祭」の成立段階から東日本大震災とは深い関わりがあるワケです。
ディープな読者なら覚えているかと存じますが、そういった繋がりもあって、
ワタシは東日本大震災3日後には福島へ復興派遣され、当時の詳細を色々と知っているワケです。
ワタシの場合は、10日程のちには東京ベースで復興指示等役に回されましたが・・・・・
話を戻しますが、そういった歴史の流れの中で
「祇園祭」や
「葵祭」は日程を動かすと
天変地異がよく起こるので、動かすことを禁ずるのは暗黙の了解だったワケです。
「葵祭」は特にそうです。
朝廷・天皇陛下から御勅使が下されるのは
「葵祭」あと石清水八幡宮の
「放生会」と
春日祭(奈良-春日大社)の
「三勅祭」 (ココをクリック)だけです。
勿論、すべて泊まって色々と見せてもらった経験があります。
石清水八幡宮は昔、常宿でしたね。(笑
脱線しますが、「石清水八幡宮」で思い出したんだけれども、
「石清水八幡宮」の宮司、田中恆清さん。
子供の頃、よく遊んでもらっていたんだけれども現在は「神社本庁総長」さんなんだよね。
また話を戻しますが、
「葵祭」は賀茂神社内のお祭り。
賀茂氏は天皇家にとって最初の外戚ですから重要なファミリーなんですね。
以前も申しましたが
賀茂氏は「八咫烏」一族です。
両陛下、私的旅行で埼玉・高麗神社を参拝 - 2017/09/21/ 11:00 (ココをクリック)賀茂氏が奈良から京都へ移り、
太秦の秦氏宗家と通婚し、
現在の上賀茂・下賀茂へと移り、京都の大開発が始まりました。
ちなみに
太秦(うずまさ)という地名は漢語で
「ローマ」を表します
京都における古代帰化人・秦氏の大きな根拠地の1つです
ハタウジ(秦氏)と日本で読ませているように
日本の養蚕業伝え振興した一族としてもよく知られていて
工業国日本の発祥の地といっても良い所です。
「葵祭」の「葵」は、元々、
秦氏の紋でした。
「葵」は、漢方の最も基本的な薬草・・・そういう知識を持っている家系という意味です。
賀茂神社は三河にも荘園を持っていて、
三河加茂庄の名目守護代として出てきたのが松平家、のちの徳川家です。
そしてそのボディーガードが服部半蔵で、服部の字から判る通り
服部半蔵は秦氏です。
賀茂氏と秦氏との結びつきから天下は最終的に徳川家に成ったのです。
織田信長や豊臣秀吉ではダメだった裏の理由が実は、これなのですねぇ~・・・・・
ほとんどの方は知らない裏歴史で、
もし知っていても絶対にテレビなどでは語られることはありません。
そういえば先頃亡くなった羽田孜首相なんかも秦氏の出ですね。
あと、薩摩島津は古い秦氏ファミリーです。
そういえば「西郷隆盛」公
幕末維新の時、倒幕軍の中心は実質的には「薩摩藩」で、
その総大将・西郷隆盛はギリギリまで幕府を追い詰めながら
結局は、徳川慶喜を助けたでしょう。
そうであるばかりか後に皇室と縁続きにまでなってますよね。
あれだけ戦争やっておいて、普通なら考えられないことですよ。
しかし日本史の裏の裏まで知れば当たり前の事なんです。
徳川は賀茂氏で、薩摩島津は秦氏です。
天皇家を中心に、古代以来の貸し借りがありますから
途中で、どんなに切った張ったがあったとしても
絶対にお互いに追い詰めないことが暗黙のルールなんです。
それが生き延びる・・・生き残る術なのですね。
ちなみに「西郷隆盛」公ののご先祖様は、
建武の新政の頃に九州に遣わされた親王将軍のボディーガードだった人・・・・・
「菊池氏」の末裔です。
「菊池氏」は元々は「藤原北家」だったと言われ
平安時代に島津氏に臣従しています。
ちなみにワタシ・・・我が「源氏」も「藤原北家」ですね。
「西郷隆盛」公も「菊池氏」を意識して
よく偽名で「菊池源吾」を名乗っていました。
だから自分の歴史的な役回りはハッキリと意識していたと思います。
流れ流れて「西郷隆盛」公の話まで行き着きましたが、
京都の祭っていうのは何かと裏がございまして・・・・・
日本史の裏の部分をちょっと散策するのもタマには楽しいものです。
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テーマ:日々の暮らし - ジャンル:ライフ
- 2022/10/22(土) 09:00:00|
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