小林健氏「製造拠点、日本に戻す」 17日にも日商会頭に選出何だかんだ理由つけてるけど
「焼畑農業」的な賃金コストの安い国が無くなって
船賃代とリスクだけが増大して来て結果
日本が一番安く付くように成ってきたので
戻って来るよ!・・・って話なだけですね。
基本的には「おカネ」だけの問題です。
日本人は、少々の人的リスクは見て見ない振りするからね。
まぁ~今日は、そんなことを書く気もなく
今日は
「文化の日」なので
日本の得意分野である「製造業」
その知られざる生い立ちというか
ほとんど誰も知らない日本の裏社会の歴史というか・・・・・
そんなのを少し書いてみようかと・・・・・
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11月1日に
「サッカー日本代表⚽️W杯メンバー発表」がありましたね
サッカー日本代表・日本サッカー協会のシンボルは
「八咫烏(ヤタガラス)」今日は、その
「八咫烏(ヤタガラス)」も関わる話です。
京都市右京区「太秦」にある
「広隆寺」 (ココをクリック)日本の国宝第1号の
「弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)」 (ココをクリック)があるところです
ちなみに
「太秦」という地名
漢語でローマを表します
それはなぜか?
「太秦」・・・京都における古代帰化人・秦氏の
大きな根拠地の1つです
ちなみにこの
「古代帰化人・秦氏」「秦(中国)から帰化した漢民族系」とされていますが
正確には
「ハザール(コーカサス)」地域 (ココをクリック)から来たユダヤ人が
「秦(中国)」を経由して日本に来た「古代帰化人」です。
「秦(中国)」で漢民族と混血して日本に入ったかどうかまでは不明です。
ついでに
「林檎リンゴ」の発祥地も「ハザール(コーカサス)」地域です。
「林檎リンゴ」=「知恵の実」であり
『創世記』に登場する
「エデンの園」です。
「ハタウジ」と日本で読ませているように
日本の養蚕業伝え振興した一族としてもよく知られていて
「聖徳太子」の最大ブレーンだった「秦 河勝」が
「太秦」を根拠地にしていました。
時代劇など
「太秦・映画撮影所」で有名になっている
「太秦」は、工業国日本の発祥の地
・・・と言っても良いところ
カイコを飼っている
それから絹糸を取り出して織物のを作る
これは貢物として朝廷を通じて国内外に
国際関係がどういう状態あっても
日本と半島や大陸の交易は続いていたんですよ
その時に先立つものは何だったか?
日本からの中国大陸への最大の輸出品は
太古から東北以北の
「干しアワビ」でした
フランス料理の
「ダシ(出汁)」っていうのは
ビーフ骨付きで煮込んだもんでしょ
「フォンドボー」ですね
ところが高級な中華料理ほど「ダシ(出汁)」としては
高級な
「干しアワビ」が必要になるんです
アワビは世界中にいるから中国の沿岸でも捕れるんだけど
ド不味くて使い物になりません。
中華料理というのは実は京料理に似ていて・・・・・
えっ?
中国の首都は、大体内陸にあるワケです
山海の珍味や新鮮な食材は、あまり手に入らない
だから衛生には気をつけつつ
「ダシ(出汁)」の味わいで勝負するしかないんです
その「ダシ(出汁)」の素が不味かったりすると
話しにならないどころか皇帝が怒っちゃって
ソッ首、刎(は)ねられるかもしれない
そこで当時の中国人は高級なダシの素を求めて
あちこちに旅立っていった
そこで見つけたのが日本の海産物だったんで・・・・・
ともかくこれだけは絶対にいる!と
日本にも体制ができてきて
聖徳太子が少なくとも中国との
対等交渉をやろうとし始めた
そういう時に一次産品のほかに
輸出品がないのでは困る
そこで当時の日本の指導層は
日本で最初の殖産興業始めるにあたって
養蚕業織物業を選んだけど技術がない
そこで大陸からたくさんの世襲職業訓練者
いわゆる
「部の民」 (ココをクリック)を連れてきていた
リーダーであった秦氏が力を持つようになったんです
京都は現在、四条河原町
その辺りが中心部になってますが
昔は西側が中心だったんです
太秦のすぐ近くに嵐山があるワケですけど
嵐山の観光絵はがきには必ず写っている所の
高さ たったの1mぐらいの ちっちゃな滝
葛野大堰(かどのおおいせき)といいまして (ココをクリック)日本最古の人工ダムなんですよ
西暦500年代以前から秦氏が開発にあたり
農業用水を確保するために作ったダムなんです
安定した農業生産の基礎ができた
それを基礎として山城国の開発に従事していた
古代帰化人豪族・秦氏は、この地に職業訓練ゲットー作って
フリーゾーンとしていたんです
彼らは社会から最初からキャップをはめられている
いろいろな制限は付くんだけど
兵隊にとられることもないし重税に苦しむこともない
代々技術を伝えていくのが仕事だから
彼らは差別は受けていたけど
それほどひどい目に遭ってきた・・・
・・・というワケでもないからですよ
明治の初めあたりに、この辺りの歴史が
大きく歪められてますよね
秦氏がやっていたこと
もう1つ大きなこと
それは貴金属の精錬技術です
推古天皇の時代、中国や朝鮮半島から訪問してくる
使節団を歓待するために
いろいろな事業やったんだけど
日本は主に東北地方で砂金や金鉱石はたくさん取れる
にも関わらず、それを精錬する技術がなかった
仏像造っても、それに貼るための金箔に
事欠く有様だった
当時の百済王朝から借りたぐらいでしたからね
日本としてもこれでは困る
技術者の養成とネットワークづくりが
必要になりました
ここにまた秦氏が出てくる
ともかく加工技術と言うと秦氏なんですよ
そして東北から金を運んでくるワケだけど
陸路で運ぶことになるわけだから
山を必ず通過する
たいへん危険な場所です
法律の支配が及ばない場所ですからね
では日本の山岳地帯を支配していた連中が
どういう面々であったか?
これまた特殊な支配階級がいた
これは神話にも登場します
神武天皇が最終的に大和盆地に入るにあたり
道案内をした
「八咫烏(ヤタガラス)」八咫烏というのは
中国の道教神話に登場する
太陽神の化身なんですけれど
奈良県南部の八咫烏神社に伝わる由来によれば
ヤタガラスと呼ばれる
三本足のカラスは
現在京都で上賀茂下賀茂神社に祀られている
古代豪族・賀茂氏の先祖現在下賀茂神社メインに祀られている
賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)であり
彼は日本の山岳地帯に縄張りおく一族のかしらであった
彼らは真っ黒い服を着て大きな杖を携えて
険しい山を滑るように
登ったり降りたりできた
それを見た神武天皇
まるで3本足のカラスのようだ!
と驚かれたという
これが
「八咫烏(ヤタガラス)」の起源です
はっきりそう書かれています
賀茂氏からはのちに修験道の開祖といわれる
役小角いわゆる役行者が出たと言われています
日本の山岳地帯に深く関係していた
一族であったことだけは確かみたいですね
ともかくヤタガラスの一族は神武天皇を助けた
そして大和征服が終了した時に
ヤマトスメラヒコノミコト・神武天皇
九州あたりから連れてきたらしい息子を殺して
賀茂一族から夫人を迎え
第二代目の天皇が生まれている
賀茂氏というのは皇室外戚第1号なんで
だから下賀茂神社
はっきり
『賀茂御祖神社』 (ココをクリック)と書いてあります
神武天皇夫人
ヒメタタラノイスズヒメの実家ですよ
という意味です
そのくらい以前から
大きな影響力を持っているんですね
ともかくこのファミリーは
こんな山岳地帯の
ネットワークと利権
あと・・・山を制しているので
「鏡カガミ」を使って
「光交信」をして
素早く多くの情報のヤリトリを遠方とでもしていました。
今でいう
モールス信号のように各山々を伝って・・・・・
この意味が今の人たちには分かりますよね。
情報を一手に収めていたんですよ
皇室の
「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」の「八咫鏡(やたのかがみ)」これには
「情報の独占」の意味が隠されているんです
誰も知らない話
普段はどうということがなくても
利害関係の衝突が生まれた時に
どこかで力を借りなければならない
そういうファミリーなんです
しかし大和地方で
葛城一族という帰化人系豪族が現れ
賀茂氏が根拠地の1つとしていた
葛城山をとってしまった
彼らは北に向かって山城国に居着いた
京都で最初に開発された場所
太秦一帯を仕切る
蚕ノ社カイコノヤシロで
大陸由来の最も一般的な薬草の1つであった
葵を祀る祭りがあった
秦氏と賀茂氏は神社の
禰宜(ねぎ) (ココをクリック)同士で婚姻関係を結び
この2大ファミリーは結びつくことになります
そこで太秦でやっていた
「葵祭(あおいまつり)」を賀茂氏の根拠地に移した
それが現在の5月15日の
「葵祭(あおいまつり)」です
賀茂氏は一族郎党が大変チカラが強かったし
一方の帰化人技術系豪族秦氏は
土木まで含めて技術を持っていた
この両者が結びつくことによって京都の開発が進み
やがては平安京造営に結びつくワケです
それが西暦500年代の初め頃からの話ですから
794年に平安京ができたその時には
大方インフラの整備が終わっていたはずです
京都で古くから伝えられている話
現在の出町柳
高野川と鴨川の合流地点の
三角地帯に下賀茂がある
あれは秦氏と賀茂氏が協力して
浚渫、元々堀川をながれていた
川を東側に集約した結果だと・・・・・
堀川は京都中心部
洪水が出ると困る
現在は僅かしか水がない
あの事業があったから
平安京造営は可能になったと
後世に類似事例があります
現在の東京都千代田区お茶の水
あの高い高い聖橋下の神田川
あれは江戸幕府開府当時
大手町、丸ノ内ど真ん中を流れた
人海戦術で手掘り大工事をやって
都心を安全にしたのが徳川家康でしたからね
あの深い谷は手掘りなんです
家康はだいたい誰か先達を参考にする
先例があったはずなんで
古代以来皇室は
散々遷都事業繰り返してきたけれど
長続きしなかった
基本的なインフラが
できていない所に作ったからです
下水氾濫で挫折した長岡京はその典型です
あのままでは桓武天皇の面目がつぶれるから
近場で探した代替地帯が平安京だった
すでに三世紀かけてインフラは整備済みだった
平安京が結局1100年続いたのは
基礎があったからなんで
そしてそれを作ったファミリーが
秦氏と賀茂氏
ちなみに三河国賀茂氏の荘園から
松平氏・・・つまり徳川家が出ている
徳川家の家紋は三つ葉葵でしょ
現在は京都の名士の娘さんの
公募になっている
「葵祭(あおいまつり)」の
斎王代ね
昔、あそこは代々徳川家の姫様指定席でした
徳川ファミリーってのは、そういう家なんですよ
徳川家康のボディーガード服部半蔵
『服部』・・・「部」がついている通り秦氏です
偶然なワケ無いんですよね
考えてみれば徳川家康
天下を取るまでの間にずいぶん
いろんなところで窮地を救われてきたワケですけれど
おそらく色々なところに借りを作ってるはずですよ
秦氏末裔の大名は西日本に結構います
かつての大内氏、長宗我部氏、龍造寺氏
そして薩摩の大大名・島津一族です
関ヶ原の戦いの時
なぜか島津一族は逃げた
ほとんど不可能といえる正面突破をやってね
そして幕末維新の時
朝敵として絶体絶命だった
徳川慶喜を薩摩島津は助けましたよね
見えない貸し借りがあるからですよ
ちなみに太秦近くに本社がある
島津製作所の本家も秦氏です
許しをもらって薩摩藩と同じ丸十の紋をつけてます
幕末維新の時、陰ながら随分
薩摩島津を助けたらしいです
同じ秦氏のよしみでね
ちなみにワタシの息子・・・・・
よく島津製作所のラグビー部と試合して
鍛えてもらってました。感謝!感謝!です。
そして鹿島神宮・香取神宮あたりを大昔から縄張りにし
その神社一帯の氏子を編成して
大がかりな軍事組織とし
東北征服活動に当たらせていた
藤原氏
よく知られている通りこの中から
中臣鎌足がでて
そして秀才官僚・藤原不比等が出た
不比等の時代に
藤原氏と賀茂氏と秦氏は
縁続きになっています
その藤原氏・・・「藤原源氏」の末裔が
このワタシなんですね
この時代にあったこと
『盧舎那仏造営』 (ココをクリック)つまり奈良の大仏建立
日本人の何割かが参加した
古代史上最大のプロジェクト
あれは金鉱石Gold生産流通の統制が
もう一つの大目的でしたが
それとは別に
キンGold精錬に必須な「水銀」の生産流通統制
これまで出来なかったことが
大仏建立を通じて可能になった
ここではじめて
金Goldの完全国家管理に目鼻がついた
プロデューサーは藤原不比等です
藤原不比等はここで
こののち この体制を維持管理するには
大和盆地よりルートそれ自体の
真上にある山城の国が有利であり
遷都にあたって秦氏・賀茂氏の協力は不可欠であるから
この際両家と縁続きになれば
藤原一族の行末も磐石であることに
間違いなく気付いていた
だから秦氏と賀茂氏の両家と通婚した
つまり奈良時代の真ん中あたりで
現在の京都遷都とは決まっていたワケで
この3者が結びついて初めて東北に産する物品
特に金鉱石Gold砂金を
山のルートを使って近畿に持ち込み
当時、京都南部の巨椋池まで大阪から船で
乗り入れることができたルートを使って
瀬戸内に流し
そこから大陸に
大陸からの物資や文化と東北地方から産する黄金Goldを
上手くトレードできる場所の確保開発が堂々可能に
それこそまさに平安京
平安京はたんなる都市ではない
平安京システムという情報・物流システムなんです
この仕組みを考えたからこそ平安京は長続きした
その礎を置いた記念碑こそ
太秦広隆寺に鎮座まします
半跏思惟像
広隆寺弥勒菩薩といわれる
国宝第1号の漆塗木像です
ちなみに
「漆(ウルシ)」英語では
「Japan」or「Japanese lacquer」 (ココをクリック)ですよね
これって地上最強のプラスチックの1つだって
ご存知でしたか?
濃硫酸に濃硝酸にも
王水にも溶けることはないんです
あれだけ化学変化に強い金や銀でも溶けるのにね
古代人はそれを使って美術品の保護を考えていた
こればかりはあらゆるカビ真菌類も
もちろんシロアリ、キクイムシも
ウルシを分解できる酵素を持っていないから
劣化することがないんです
これは縄文時代から知られた
テクノロジーだった
ただ漆には弱点があって
紫外線で簡単に分解されてしまいます
だから腐らない金属・金Goldを貼れば
バッチリ永久保存でしょ
タダ見た目美しいから
そうなってるんじゃないんですよ
だからパリのルーブルから
西欧文明の1つの精華といえる
ミロのビーナスが上野にやってきた時
その代わりにパリに持ち込まれたのが
広隆寺弥勒菩薩だったわけです
贔屓目なしにフェアトレードだと思いますよ
これが日本の
「文化の日」の裏話です。
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- 2022/11/03(木) 06:00:00|
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